昭和42年6月19日 朝の御理解


「物事に時節を待たず苦をすること」
 御教えにございますですね、物事に時節を待たず苦をすること、つまらん話です。そこが凡夫のことでございますから分かりません。このようにほったらかしておいて良いじゃろか、こんなに便々としておいていいじゃろか、何とか手を打たんでよかろうか、とあれやらこれやら、そのまあ人事を尽くすというでしょうかね、非常にその心配をする。そして、ちっとでも早うそれをおかげにしたいとこう思うのは、人情では御座いますけれども、信心をさして頂いておりますと、そこんところが段々分かってくる。いわゆる御神意が熟する、信心が熟するとこう申しますですね、信心が熟するという時期が必ずある、そこに素晴らしい一つのタイミングというかね、例えて云うならば今日は誰々さんに、是非会わねばならん用がある、それで今からすぐやらせて頂こうと思う。ところがその神様はそうですね、今日は早く午後から行かれたがいいだろうとまあ例えばそういう風に教えて頂くと致しましょうか、ところが早く会わんならんから、朝の内にでも行きたいと、こう思うのですけれども、神様がそう教えて下さるからというので、昼からやらせて頂く。もうその人の家を訪ねた、ところが丁度その途中にですね、バッタリと道で会った。いやあもう本当にあたしゃ今日は他所に出かけよるところじゃった。実は私はああたんとこに行きよるとこじゃった。結局そこまで行かんでも済む訳なんです、例えばそれが二里の道であるならば、一里のところまで向こうも出て来てある。こっちも一里のところでいい、はあ丁度良かった、実は今日はああたんところに行きよるとじった、実はこうこうこういう訳ですからと云うて、まあ用件が整った、ならたった何時間かの間のごたるけれども、なら朝から行っとりゃ、成程向うにられたかも知れんけれども、(    )行かなきゃならない、まあ小さく云うならそういうようなこと、ね、ま、それが大きく云うたら、何時間先、又は何年というように、時期を待たなければならんこともある。もうその時節を待つということがです、もうなんとも云えんお繰り合せを頂く。それでその神様はそういうような働きをですね、いろいろに下さるんですね。
そして分かることなんですけれども、はあ成程神様がどういうご都合じゃろか、まあ例えて云うならば熊谷さんところの、長男の則男さんが東京の慶応大学に受験される時がそうであった。もう兎に角浮羽高校では、飛び抜けて成績も良いし、先生方ももう太鼓判を押すようにしてから、云われたんだけれども、出来なかった、而も二年も続けて出来なかった。みんなはどういう訳じゃろかとこう思うごたったけれども、二年間待てなんて云うたって、仲々氏子は待たんから、いわゆる不合格というその事を以て、二年間待たして下さった。三年目でした、おかげを頂かれたのは、さあところがです、成程三年後でなからなければ、こういう素晴らしい事にはなるまいというように、こりゃもう入学の時からこりゃまあ云うならまあ下宿の事からですね、もう何かに万事につけてまあ人より二年遅れた、遅れたけれども今度は就職のことに、これが二年前であったら、ここにはこういう風に、こういう風なところには、とても就職のおかげは頂けまいというように、それだけではございませんでした。もうあれやらこれやらです、成程二年遅れたのは、ここにこういう御都合があったんだという事が手にとるように 分かった。だから時節を待てと仰っても、仲々待てんことがありますけれども、神様は待たして下さる、そういう働きもあるですね。ですから時節を大事にしなければいけないという訳なんです。云うなら又はっきりとしよんなさいますな、まあ成りゆきにまかせて、時節を待っときなさい、とここで私はいつも申しますです、ね。そういう時にです、私は時節を待たせて頂く間の信心が大事だと思うんですね。どうだろう、熊谷さん本当にこれだけお願いさして頂きよるとに、でけじゃった、まあ一年ならともかくも、二年も続けて出来なかった。もう神様は頂かんぞと云うて、もちっと信心が疎かになったり止めたりしておられたら、今日のおかげになっていないのですよ。その辺のところを私共は信心しよれば気長になれと云うのじゃなくてですね、その私は時節を待たず苦をすること、物事に時節を待たず、必ず時節というのがある。チャンスというのがある、そこんところを頂きとめさして頂くために、信心の稽古をしとかにゃいかん。何年待てち云いござるけん、なら何年待っとこう、と云うてそれこそ三年寝太郎じゃないけど、寝てから待っとったんじゃいかんですよ、そこんところが大事にせねばいけません。
 昨日一時頃でしょうか、善導寺の原さんの御親戚すじにあたられる方がはじめてお導きを頂いて参って見えた、もう話を聞けば聞く程にもう本当にあの、いっそのことバタバタいっちょひっかたづけてしまおうか、とまあひとつの問題があった。もうひっかたづけてしまおうごたる問題なんです、私が聞いとってもです、人間的に考えてもそりゃ早う片付けなさったが良かですばい、と云おうごたる、もうはがゆいことも内容にあるんです。かえってサッパリして良かでっしょうが、ち云おうごたる、ところがです、その方がここに見えました途端に私がここで頂きますことがですね、私が玉露の点前をしておるところを頂くのですよ、お茶なんです。おうすにも矢張りあの点前があるんですよね、それでその点前をさしてもらう、その例えばおさ湯ひとつでも、ちゃんとこの冷ます時間というのが定っておる、成程これは静岡の最高の玉露でございます、これは星野の銘茶でございます、と云うてみてもですよ、どうでしょう、ああもせからしかけんち云うてから熱か湯ばジャ―ッと入れたら、どういうことになりますでしょうかね、それこそ渋して、苦うして、かえって飲まれんというごとなりはしませんでしょうか。そこんところをです、例えば湯冷ましに湯を汲んで、その湯の冷めるのを待つ時間は、いらいらするようにもあるけれどもです、それは何とも云えん、口にもつごたる味わいのおかげを頂かしてくださろうとする神様の働きなんです。で、私はその事を申しました、もうですから本当にそうでございますね、その間にどうでもひとつ私も人間つくりに少し精進させて頂きましょうと云うて帰られました。そこなんです問題は、その間をです、だから人間をつくるということが、ああ、ああたの思うとる人間つくりじゃいかんから、ま、出来るだけ一つ、ま、遠いところでもない、鳥栖からでしたから、お参りしておいでなさいと云うて、これからお導き頂いてお参りさしてもらいますと云うて帰られました。はあそうですか、ならいっとき待ったが良かですか、と云うて待っただけじゃいかん。その間を人間つくりのために信心の修行が必要なのです。教えを本当に分からにゃいかん、そして分からんところは分からしてもらい、改まらねばならんところは改まらしても頂いて、その時期を待たしてもらう。成程おかげを頂いて、その頃にはその人間そのものも人間つくりの上においても、おかげを受けておるということになるのです。
非常にその、せく、や―や―云う、そこにですね、おかげがくずれてくる、神さまにおすがりさせて頂いて、おすがりして神様におまかせするという、これが一番大事なんですよ、ね。それに自分がいらいらしたり、そげんじっとしとられんと云うてです、あの手この手を使う、そこから、今度は本当のおかげじゃないおかげにくずれてくる訳なんです。他人に頼む、自分がバタバタしてです、かえってその神様が本当に下さろうとするおかげを、くずしてしまうことになるのです。そういう意味のことがいつもあるですね、けども仲々そこが信じられませんとです、先生はそげん云いなさるばってんじっとしとる訳にゃいかんと云うて、まあ要は神様が下さろうとするおかげを、頂き切れずにしまえる人が沢山おられます。

 これも昨日でした、御祈念の後に高芝さんがお届けを去れました。ご承知のように、お仕事も定年になられた、と云うてお母さんの方の店の手伝いばかりしとるのも、今までは御造営のことで毎日毎日御造営、御造営と云うて出られたから、まあ御造営の済むまでは、お父さんまあ仕事につかんでも、御造営の方に打ち込みなさい、と家の者がそういう風で、まあ云うなら二年間ですね、その仕事にもつかれなかった。けども、もう御造営の方も済んだし、いろんな事情も御座いますから、適当な仕事があるなら就職のおかげを頂きたい、と云う願いであった。そこで私も本当にそうじゃなあと思いましたから、その事をお取り次さして頂いて、神様にお願いさして頂きましたら、私御心眼に頂くのがですね、今はもうあれは使ってないですね、はだかという麦がありますね、はだか麦というのが、こう大きい、ずくっとしたような麦ですよ、あれは、はかまが、がっちりしたはかまがあるですね。その麦を頂くのですよね、このお穀のお知らせは、もうお知らせの中で最高のお知らせです、米とか麦とか粟とか稗とかというようなことは、これは大変有難い信心をすすめなければ頂けない御教えなんです。
 成程総代の御用頂いてからもう十何年間でしょうか、一生懸命こうして一家をあげての信心が出来ます。ですからおかげを頂いて麦のおかげは頂いておることを感じられます。特にこれだけは私は誰よりも立派だと思うことは、非常にこの袴をきちっといつもはいておられることですね、高芝さんは。これは本当に感心する位です。いわゆる きちっとしたそういう意味での信心が出来ておられる訳なんです。ところがです、神様はそのそれこそ這えば立て、立てば歩めというのが親心なんだ、いわゆる良いおかげを頂いてくれよと云うのが親の願いなんです、そこで神様はですね、この麦の信心から稲穂の信心になれということを頂く、稲穂の信心こそ有難い、稲穂の信心にならせて頂いて時期を待てと仰る、さあ稲穂の信心になれ、麦というのは、どんなに実が入っとってもツ―ンとしとるでしょうが。上向いとる、実れば実る程かがんでいく稲穂かなと云うようにです、稲穂のようにいくら実が実っても、どんなに信心が出来とっても、なんとはなしに、こうつき立っておる。成程そう云や高芝さんの信心生活の中に、そういうようなものを感じますですね。
ですから内容はともかくとして、外見は分からん、他人には。いや悪う云うなら総代じゃけん威張っとる、といったような風が見えんでも無い、まあ威張りもしないだろうけれど、性格的にですね。長年税務署の税務官としての仕事の関係もあるでしょう。税務署になると呉服屋の番頭のごとペコペコする訳にゃいかん。場合によっちゃ矢っ張し威張ったようにしとかなければいけない場合もあるでしょう。そういうのが何とはなしに身についてしまう、でそのペコペコせろじゃないけれども、内容がほんとに、そこんところが分からして頂いて、いよいよ自分というものを分からして頂いて、自分というものをいよいよ追求さして頂いて私のような者が、私のような者がというところ、私のような者が神様がどうして合楽のお広前で、而も最高の、いわばその総代としての御用を、私の上に下さっておるのであろうか、とてもとても信心が出来ておるだけのことじゃない、信心が出来とるけんじゃない、これは特別の神様の御都合があるにちがいない、と本当に総代なら総代としての信心を、身に付けさして頂いておかげを頂いていかなければならんという、意欲に燃え立っていよいよ中身を追求していかなければならん。そして誰よりも彼よりも、云うなら一番出来とらん私としての自覚、高芝さん、云うならばこの頭の地につくように、稲穂が実れば実る程、土に頭がつくように、こう頭が下がっていくように、ここんところをひとつ目指して、ここんところをひとつ切り替えて、麦の穂の信心から稲穂の信心に切り替えさして頂くごとに、一生懸命ならして頂きながらです、その仕事の事を願いなさい、まあだ今ではあの程度のまあだそれは神様の下さろうとするおかげじゃない。高芝秀雄その人にです、本当に稲穂の信心を頂かせて、そして下さるおかげというのは、これは私共でも計り知れない御神意が、そこにはあることであろうとこう思うのですね、今日の御理解は、それで、ならもうあっちこっちにバタバタしてからです、良か仕事はなかじゃろかと云うて探し回って、言わば気をもむよりもです、本気でその事に取り組まして頂いて、その時期を私は待たして頂くということこそ、私は本当のおかげじゃなかろうか。時節を待たずに苦をすること、ではなくて、それこそ成り行きを大事にさせて頂きながら、自分自身の人間作りの上に、いよいよ精進 焦点をおかして頂いて、それこそ玉露のような味わいのあるおかげを頂かして頂くためには、今熱い白湯をさしたんじゃ苦い、渋いものしか生れてこないだろう。ここんところのおかげを頂くために、高芝さん、もう一段と精進をしなきゃいけませんなと云うて、お取り次をさして頂いたことでございました。
お互いの心の中にもございましょう、もう一時でもいいから早う頂いた方が良かごたることがあるでしょうが、成程信心不足の為に受けられないというようなこともございましょう。けれども私は第一に分からなければならないことはです、おかげは絶対のものだといつも頂くように、おかげは絶対のものだ。
 折角頂くならばです、同じままになっても、百円位の丼物もりましょう、二百円位な定食も御座いましょう、500円も千円もといったような定食もあります、腹だけにたまるというなら(   )変わらんけれども、折角ならばです、最高のおいしいものを頂きながらの、頂いてからのままになるおかげの方がいいでしょうが皆さん、いいえもう腹一杯になりさえすりゃ良か、もう丼もんでもかまわんと、まあこれから本当に、喉から手の出るようなこともございますけれども、そのことを修行と思うてです、神様が本気で、本気でじゃない、本当に下さろうとするところのおかげを、頂き留めさして頂く時に、はじめて氏子信心してよかったなあ、おかげを受けてよかったなあと神様が喜んで下さる。
 私共も本当に夢にも思わなかったようなおかげを頂かしてもろうて、勿体ないというおかげを頂けるのである。そういうそのおかげを頂かせて頂くために、今日の御理解をひとつ本気で玩味してみなければならない。成程時節を待たず苦をすることと仰るが、私共は時節を待たずに苦をしておるようなことはなかろうか、そこんところをひとつきわめていかねばならないと思うですね。
                          どうぞ